森本の変遷と商店街の今昔
「村」、「町」そして「市」へ 近代から現代にかけて
森本は古くから陸上交通の要所として重要な役割を果たしてきました。明治のはじめ頃、森本地区が属していた河北郡では、それまでの加賀藩が制定した十村制度(農政統制)の廃止や廃藩置県などにより、繰り返し行政区域の改正が行われていました。明治21年(1888)4月には「市政及び町村制」が公布され、翌22年(1889)4月1日に施行。この時に、南森下、北森下、塚崎、梅田、観法寺、吉原、弥勒縄手などで構成された「森本村」が誕生しました。その名は、森下川に由来すると言われています。
それから50年余りが経った昭和29年(1954)6月1日、当時の森本村、大場村、八田村、花園村、三谷村の5つの村が合併し、新制「森本町」が発足。町役場は、旧森本村大字南森本に置かれました。その8年後の昭和37年(1962)6月1日に、「金沢市」に編入合併し、現在に至ります。
商店街のこれまでとこれから
明治44年(1911)に森本駅が開設されて以来、駅前の通り沿いを中心に自然発生的に商店街が形成されます。昭和初期には、株式会社石川製作所が森本工場を建設。戦後の好不況を乗り越えながら業績を伸ばし、地域の活性化を担う存在にもなっていました。
昭和30年(1955)には、森本駅前の商店街の組織化が必要との気運が高まり、任意商工会として森本町商工会(現在の森本商工会の前身)が組織され、昭和35年(1960)8月に県知事認可を得て正式に発足されました。
昭和後期には大型ショッピングセンターや共同店舗の開店など、商店街の近代化に対応するとともに個人商店の強化にも努めてきました。現在は約40店舗の会員により「地域の発展と向上」を目的として昭和57年(1982)に設立した「森本商店街振興会」が組織されています。
時代を超え未来へとつながる道
藩政時代の面影を残す「北国街道(旧北陸道)」
森本駅前を南北に渡るこの道は、藩政時代に最も多く利用された幹線道路の1つであり、加賀藩主・前田家の参勤交代もこの「北国街道」を利用していました。江戸時代、北国街道のうち、金沢城から南、京へ上る道を「上口往還(上街道)」、城から北、越中から江戸へ下る道を「下口往還(下街道)」と呼んでいました。前田家の参勤交代の多くは「下口往還(下街道)」を通ったとされています。昭和初期頃までは北国街道の多くが、そのまま国道として使用されたものの、森本駅周辺では昭和20~30年代にかけ、北陸本線の鉄道(東側)に沿う形で新しく広い道が整備され、主役をそれらに譲ることとなりました。
また、加賀藩では幕府の政策に従い主な街道の左右に松を植えました。北森本にある「松並木」は、その面影を伝える貴重な風景の一つであり、石川県指定史跡にもなっています。
森本駅開業とバス路線の開設で活気づく
明治44年(1911)11月1日、周辺住民の長年の願いが叶い、国鉄北陸本線の金沢駅と津幡駅間に森本駅(森本停車場)が開設されました。これにより旅客の乗降や貨物の発着が盛んになり、駅前の商店は活気をおびるようになりました。
昭和7年(1932)に市内バス、昭和10年(1935)には省営バスの運行が開始し駅前機能がより充実しました。国鉄バスの時代を経て、昭和62年(1987)には、国鉄の分割民営化によりJRバスとなり現在に至っています。
山側環状と北陸新幹線金沢開業
平成3年(1991)、金沢市今町-鈴見台間を結ぶ金沢外環状道路の一部として、金沢東部環状線道路工事(山側環状)が着工され、平成18年(2006)4月、金沢森本IC-東長江IC間の開通に伴い全線が開通しました。平成27年(2015)3月には北陸新幹線金沢開業に伴い、森本駅は、IRいしかわ鉄道線の駅となりました。
このように森本は、緑豊かな自然に囲まれながら、古くから主要な陸上交通と深く関わり、今後も金沢の「北の玄関口」として重要な役割を担っていきます。